vol.5 偶然と必然の狭間で/巌 流石[2009.07]
釣師は友人が爆釣すると、彼はラッキーだなと思い、自分が釣れないと俺は運が悪いと嘆く。一匹でも釣れようものなら、このフライがよかったのだ、流し方が完璧だったのだと、一人悦に入り、爆釣すれば俺の腕は上がったと自惚れる。よく考えてみると釣師は偶然と必然を都合よく使い分けている。釣りは自然を相手にしているのだから偶然が大きなウエイトを占めていることは否めない。ビギナーズラックはその所産の最たるものだ。しかし鮎釣り大会で毎年同じ顔ぶれが上位に進出し、マグロの一本釣りでもよく釣る漁師は決まっているのだから、「釣りには必然が支配する世界も存在する」、このことも明白である。偶然が支配する世界とは自然の中のブラックボックス、人の精神、運など法則の存在しない世界であり、必然が支配する世界とは絶対的普遍性の法則が存在する世界である。初心者は偶然の世界に身を置いているのだが、経験を重ねるにつれ必然の世界に入っていく。その偶然の世界から必然の世界に足を踏み入れた体の重心の位置でその釣師のレベル、技量が決まる。もちろんどんな名人でも偶然の世界から完全に抜け出ることは不可能ではあるが。
釣師の技量は釣果に表れるのだから技術の向上を目指すフライマンほど新しいフライパターンを創出し、システムを考え、流し方を工夫し、魚の習性を調べ、キャスティングを練習しと、ありとあらゆる事をして魚を釣ろうとする。だが、古来釣りの金言に「イチ場所 ニ餌 サンが腕」というように釣師はみな場所に最もこだわっているのではないだろうか。人が釣れたと聞けば、どこの川で、どこのプールで、そのプールのどのあたりで、何か目印はと細かく聞くのが常だ。そしてそのプールに立ち、その釣れたあたりに近づくと胸の鼓動は高まり、釣れずにそこを遠ざかるにつれ鼓動は鎮まる。そこで釣れたという事実だけを頼りに釣りをするのは一種の祈りであり、それは偶然の世界のものである。自分の目で見て釣れるという確信ではなく、釣れたという情報だけで釣りをする釣師は偶然の世界に身を置いている。とは言うものの、すべての釣師は釣れたという話に多かれ少なかれ心をときめかせ希望を膨らませるものだ。そしてその釣れた場所が遠ければ遠いほど、行くのが困難な場所であればあるほど、その場所は心の中で桃源郷と化してしまう。だが、その桃源郷に行っても魚は釣れないことが多い。すると本物の桃源郷はどこかほかに、もっと遠くにあるはずだと思い込む。桃源郷のしがらみから解き放たれないでいる釣師たち。本当に桃源郷は遠くに存在しているのだろうか?
奥田氏とアメマスを釣りに行った時のことである。はじめ河口近くの止水状態のポイントで釣りを始めた。彼はルアーで私はフライで釣りを始めたが、ルアーでポツポツと何匹か釣れたが私の方には何のあたりもなかった。ルアーで釣れているのだから魚はいるのは確かである。しかし私に釣れないのは止水のためにフライのシルエットが保てないためだろうと推測した。そこで上流の流れのあるポイントに移動することになった。そこは彼が前回来たときに爆釣したポイントだという。確かに魚がたまりそうなポイントに私にも見えた。魚の存在を確認するために彼はルアーで釣りを始めた。しかし彼がルアーでいくらやっても魚の当たりすらないのである。そこで彼は私のところにやって来て、魚が移動したのかここには魚がいないみたいなので別のポイントに移動しようと提案した。ルアーで釣れないのだから魚がいないのだと考えてそうしようと思った。が、あと10mでいいポイントに差し掛かるのでそこまでやってから移動することにした。もちろんそこも彼がルアーで探りをいれており、魚がいないことは十分判かってはいたのだが。ところがそのポイントにフライを流すとなぜか60cmの立派なアメマスが簡単に釣れてしまったのである。ルアーで釣れなかったのでいないと思ったポイントから釣れたので私も彼も非常に驚いた。しかしさらに驚いたことにその後ワンキャスト ワンヒットなのである。あっという間に釣果は二桁になった。そこで彼に再度そのポイントにルアーを投げてもらったがやはり釣れない。そのあと私がフライを流すとアメマスが釣れるのである。何度も同じことを繰り返したが、結局ルアーではまったく一匹も釣れなかった。
この出来事で色々なことを考えた。もし彼がポイントを変えようと提案したとき、それに従って移動していたら、そのプールには魚がいないと私の心に刻まれ、私は再度行くこともないだろう。水面下には魚がいるのに心の中に魚がいなくなっている。魚が心の中にいないのだ。極寒のイトウ釣り、釣れないサーモンフィッシングでの釣り人たちをみると多くの人の目は死んでいる。その釣り人たちの心には魚がいない。だから釣れないのだ。よく釣る人の心には常に魚がいる。だから目が生き、背中にオーラが発せられる。それゆえ遠くからでも名人を見分けることができる。魚はいるべきところにいる。桃源郷は遠くにあるのではない。多くの釣師には眼前の桃源郷の扉が開けられないだけなのだ。考えてみれば、管理釣り場でさえ、釣れないときは有り、釣れてもすべての魚を釣り上げることなどありえない。自然の川で釣れないなんて当たり前と言えば当たり前である。この出来事をきっかけに釣りをしながらここには魚がいないのではないだろうかという不安から解放され、釣りの技術の向上に専心出来るようになった。
しかし、それにしてもどうしてルアーに食いつかないで、フライを食ったのだろう?これはいくら考えても自分なりの結論がでない(管理釣り場ではルアーにすれてフライで釣れることがよくあるではないかと安易に言うこと勿れ。ここは天然の北海道の川であり、ルアーにすれることなどありえないのだから)。もし科学が発達し、魚と会話を可能にするバウリンガル(犬との会話装置)のようなものが出来たとしたら、フライマンは魚にどうやって本物の餌とフライを見分けるのか聞くだろう。しかし、魚の答えは決まっている。「それだけは口が裂けてもイエマヘンナ」と。それはそうだろう。それを言えば種の消滅に繋がるからだ。しかしそれでも拷問にかけて吐かせたとしたら、その瞬間、正にその瞬間にフライフィッシングの魅力が消滅する。
釣師は釣りの魅力に取り憑かれ確実に多くの魚を釣りたいがために、偶然の世界から必然の世界に大きく足を踏み出そうと日々努力している。真直ぐ前を向きひたすら必然の世界を追い求め、あるときふと後ろを振り返ると、偶然の世界の中に普遍の法則はないにしても釣師として自分なりに解釈しなければならないと思う疑問があることに気付く。釣りの魅力は偶然の世界の中にも存在しているのである。それゆえ偶然と必然、この二つの世界の間を釣師はいつまでも彷徨い続けなければならないのだろう。いつまでも、いつまでも-----。