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Fisher's Column

vol.2 謎の巨大魚/新井 太郎[2009.04]

長年釣りをしていると、俄かには信じがたい不思議な体験に出会うものである。
FFを始めて二十年になる私にも、そんな「嘘のような本当の話」がいくつかある。
本州に住み本州での釣りのほうがはるかに多い自分なのだが、なぜか、そんな話の多くは北海道が舞台なのだ。
もっとも、その自然の圧倒的な豊かさを思えば、それも不思議ではあるまい。あるいは、これからお話しする体験も、「嘘のような」と思っているのは実は私だけで、道内に生まれ育った釣り人にとっては、何の変哲もないよくある話の一つにすぎないのかもしれない。
ともあれ、今も記憶に残るそんな話のいくつかを、これからお話ししよう。

それは、奥田氏に出会う五、六年前のことだから、今から十年以上も前の出来事である。
その夏、私は、家族とともにキャンプで道内各地をまわっていた。以来、家族での北海道キャンプ旅行は毎年の恒例行事になり、今日まで続くのだが、その最初の年のことである。
今思えば、この一年目の体験が、その後の私の北海道通いを決定づけてしまったのかもしれない。
家族でのキャンプ旅行というと聞こえは良いが、家族から言わせれば、釣りバカの父親に引きずり回された揚句、北海道にまで連れて来られてしまったというほうが、事実に近い。
当時の私は、釣り師なら誰もが一度は通過する、寝ても覚めても釣りばかりの、いわゆる「病気」の真っ只中にあった。
とにかく魚が釣りたい。
解禁から春にかけては関東近郊河川でマッチ・ザ・ハッチに熱くなり、初夏から秋にかけては、片道500kmの道のりも苦にせずに、無垢な岩魚を求めて岩手・秋田の山岳渓流を巡っていた。
だから、こちらから言わせてもらえば、そんな「病気」が高じて、ついにある夏、海を越えて北海道まで来てしまったとしても、それは、自然の成り行きだったとも言えるのだが……。

渓流

それでもまだ当時の私は、家族をはばかって、朝早くに一人テントを起き出し、そこからほど近い川へと出かけ、わずかな時間だけロッドを振り、そして、昼間は子供たちを楽しませるために、観光したり一緒に遊んでやったりしていた。そんな旅の毎日だった。
それでも十分に、本州に比べれば濃い釣りができ、満足していた。
その日も、私は子供たちの寝顔に見送られ、車で川へと向かった。
前日、キャンプ場の管理人さんに「この近くに、でかいサカナがいる場所があるよ」と、道順まで教えてもらっていたのである。
その川までは容易に到着することができた。
ハンドルを握りながら、「でかいサカナ」を釣り上げる姿を夢想して、ニンマリ笑う自分がいたかもしれない。
ところが、目的の橋の上に立ち、眼下の流れを見渡した私は、次の瞬間、途方に暮れてしまったのである。
今思えば、何でもないことである。
管理人さんの言葉には、嘘も誇張もなかった。確かに「でかいサカナ」は、間違いなく「そこ」にいたはずだ。
彼が私に教えてくれた場所とは、尻別川の、しかも下流域に近い辺りだったのだから!それを千曲川や桂川と同じ尺度で勝手に思い描いていた自分が愚かだったのである。

広大で豊かすぎる流れを前に、私は途方に暮れた。いったい、どうやって釣ると言うんだ……?
当時の私は、ダブルハンドもパワーウエットも知らず、もちろんそんな技術も持たなかったのである。
結局、「でかいサカナ」の棲む本流はあきらめ、近くの支流に行くことにした。
川に並行して伸びる道を上流に向かってしばらく車を走らせ、川の規模がいわゆる渓流に近くなった辺りから釣りを始めた。
思いのほか太い流れの中に降り立つと、朝の陽射しが河畔の木立の合間から波立つ水面に降り注ぎ、キラキラと眩しいほどだった。
魚たちは、そんなまばゆい水面を割って、私の投じたフライに、実によく反応してくれた。
流れのいたる所に魚が付いているようで、まさに、ワンキャスト・ワンフィッシュに近い状況だった。時には、ドリフトするフライめがけて複数の魚たちがチェイスする、なんてことも珍しくなかった。
本州のスレッカラシを相手に神経をすり減らすような釣りをしてきた自分にとっては、ある意味、確かにパラダイスだった。
だが、すでにお気づきのことと思うが、そんな反応を示すのは、決まって小魚である。そう、私を出迎えてくれたのは、ヤマメの新子たちだったのである。

当時の私の釣りのスタイルは、ほぼドライフライ一辺倒で、山岳渓流でよくするような、いわゆる叩き上がりの釣りが主だった。
目の前のポイントを一つずつ、しらみつぶしにフライを投げては、遡っていく。だから、小さな規模の渓流では、ラインをリールに巻き取る暇もなく、ポイントからポイントへと、フォルスキャストをしながら歩いて行くような感じだった。
加えて、私が使っていた道具はと言えば、当時流行の#3ライトタックルに、フライボックスの中には雑誌に紹介されたような様々なパターンが詰め込まれ、それも#14以下の繊細なものがほとんどだった。
初めての北海道とは言え、無知とは、恐ろしいものである。これでは、新子ヤマメは釣れても、ビッグトラウトなんて、釣れるわけがない。
だが、お恥ずかしい限りだが、当時の自分は、それに何の疑いも抱いていなかった。そんな自分に、もしも「万が一」があるとすれば、それは、交通事故のようなものであったろう。そう、出会い頭の交通事故のような……。

渓流

---たしか、その時も、6Xのティペットの先には、夏の定番アントパラシュートの#16を結んでいたと思う。
しばらくは新子ヤマメと遊んでいたのだが、そのうちに、ブラウントラウトが混じるようになってきた。本州の自然河川では、まずお目にかかれない魚だ。 25cm~30cmクラスだったと思うが、その強烈な引きは、私を興奮させるに十分だった。
何匹か釣るうちに、付き場所が分かるようになってきた。それからは、小場所は飛ばして、水深のある流芯の筋に狙いを定めて釣り上がっていった。
陽射しが高くなり、そろそろ家族の待つキャンプサイトへ帰らなければ、と思い始めていた頃だ。
そこは、岸際に大きな木が張り出し、その根方が深くえぐれて、手前の流芯との合間に反転流ができているようなポイントだった(と思う)。
キャスティングの下手な私は、フライを見失い、案の定、根がかりをさせてしまった。あーあ、また、やってしまったと、すでにその日フライを何本かロストしていたせいもあって、水中深くに突き刺さったまま動かないラインを、半ば強引に、ロッドをあおって引き抜こうとした。
と、その時だった。ラインが動いたのである。水中に突き刺さったその角度のまま、手前にではなく、上流に、動いたのである!
ん? ん? ん……ん?
……と、思っている間に、水中のラインがどんどん遡って行く。ロッドグリップを通して、味わったこともないような力が伝わってくる。それが、生き物だと分かるまで、それほど時間はかからなかったかもしれない。だが、何が起こったのか、正直、理解を超えていた。確かなのは、根がかりではなかったということだ!

まもなく「そいつ」は、本格的に動き始めた。ラインは、水中深く突き刺さったままだ。
上流へと少し動いては止まる。決して速くはない。むしろその動きは緩く鈍重だ。だが、それが何度か繰り返された後、そして、その正体がとてつもなく巨大な魚だと気づいた後、「そいつ」は圧倒的な力で、ロッドを握ったまま何もできずにいる私を引きずって、太い流れを遡り始めた。
そう、あり得ない話だが、人間を引きずったまま遡る巨大魚のイメージなのだ。それは、まるで大きな土佐犬の前進を止められない非力な飼い主が、リードにしがみついたままよたよたと追いすがって行く、そんな感じなのである。
と、このように書きながらも、あのときのパニックに近い興奮と、掌を通して伝わる不思議な力は、言葉に置き換えるすぐそばから、どれも嘘っぽくなってしまうのである。

だが、あの時私は、その巨大魚を、なんとかしてキャッチしようとあがいていたはずだ。
流れの中を「そいつ」と一緒に遡りながら、そのチャンスをうかがっていた。けれど、いっこうに姿は見えないし、力が弱まる気配は微塵もない。
それでも、しばらく続けるうち、突き刺さるラインの先端は、互いの距離が縮まっていることを知らせていた。
一気に勝負をかけようと、背中のネットをつかみ、その手を水中に突っ込んでみた。次の瞬間、水面が激しく割れ、私の目に入ってきたのは、「そいつ」の、とてつもなく大きな尾びれだった。それは、まるで団扇さながらで、一瞬だが私は、恐怖にたじろいだほどだ。 と同時に、ネットで掬うなんてこと自体が不可能であることをすぐに悟った。なぜなら、その時の私のネットは岩魚ヤマメ用のもので、「そいつ」の尾びれとほぼ同寸だったのだから……。

レインボー

さて、そろそろ結末を書かねばならない。
お察しの通り、私は「そいつ」をキャッチすることはできなかった。
だが、それだけなら、釣り師の間でよく耳にする「逃した魚は大きかった」譚の一つに過ぎず、「嘘のような本当の話」とは言えまい。
そもそも、なぜ、そんなライトタックルでその巨大魚と、それなりの時間、わたり合うことができたのだろうか? しかも、ティペットは6X、フライは#16なのである。
確かに、「そいつ」が下流に突っ走ることなく、常に上流へと動いてくれたことは幸いした。そして、無意識だったとはいえ、私がそれを最後まで追いかけ、間合いを保ち続けることができたのも、その要因の一つだったと言えよう。

結局、その巨大魚の正体を特定することはできなかった。
大きなアメマスだったのか。モンスター・ブラウンだったのか。はたまた、わずかながらもその川に生息するという、幻のイトウだったのか。
いずれにしても、自分がかつて見たこともないような巨大な魚だったことだけは確かだ。
その後何年か経って、60cm級のニジマスを初めてキャッチすることになる自分だが、その動きやトルクからして、それがニジマスでなかったことは確かだと思う。
いずれにしても、この謎の巨大魚との出会いは、北海道の川の底知れぬ豊かさを私に思い知らせ、限りない魅力とともに私を惹きつけたことは間違いない。
だが、それにしても、なぜ……?

結末は、こうである。
……尾びれを見せた「そいつ」は、次の瞬間、反転して、猛然と突っ走ったようだ。
「ばらしたか!!」
ロッドを持つ右手からテンションは失われ、私は、へなへなとその場にへたり込んでいた。
呼吸は乱れ、心臓はバクバクで、悔しさよりも、ただ呆然としていた。
凄い、凄すぎる!あまりのことに圧倒され、しばらくは、動くこともできなかったのだと思う。
2、3分ほどして、ようやく落ち着きを取り戻した私は、ラインを回収し始めた。
ん、ん? リールを巻き取る右手が、わずかだが、抵抗を感ずるのである。そして、次の瞬間、私は自分の目を疑った。
ティペットは、切れていなかった。フライも、結ばれたままだった。
だが……、そのアントパラシュートには、ヤマメが食いついていたのである。
既に、目の光を失い、くたーと、のびたように死に絶えた、15cmくらいのヤマメが……。
(了)

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